表題は明治13年から昭和42年頃までの旧町名を掲載しました。
緑字は江戸時代の町名です。
末尾に近郊の村も付記しました。
家臣団が住んでいた侍町(御家中町・御給人町)
馬場町
最上氏時代には七日町・上肴町などの町人町があり侍屋敷も混じっていたが、酒井氏時代になってからは上級武家の町となり、松平・石原・里見・末松等家老級家臣が住んでいた。その屋敷の広さは1,600坪内外の広大なもので、今日残っている風間家(丙申堂)の門は1,400石松平武右エ門家の門であり、又天主堂にある門は1,000石末松十蔵家の門である。当時は学校(致道館)、御厩等があり、御厩には乗馬訓練のための馬場があった所から馬場町と命名された。北から馬場町・馬場町五日町口・同三日町口・同十日町口と称されていたが明治13年に合併して馬場町となる。この町名は現在も残っており、城跡は公園となり、付近一帯は官庁街として市の中心をなしている。
家中新町
最上氏の頃は二の丸内に上級家臣の屋敷があったが、酒井氏は城を二の丸まで広げ、その外側に新たに三の丸を設けて、そこに御家中(上級家臣)を住まわせた。その内、城の西側が家中新町と命名された。酒井家の菩提寺大督寺や致道博物館があり、同館にはご隠殿という藩主の隠居所が残っている。又、字名の伊予様小路は、肥前島原藩主高力伊予守顕長が民を苦しめ奢侈にふけった罪により領地を召し上げられ、酒井家にお預けとなり、この地に幽閉されたことにちなんで付けられた地名である。経蔵小路は大督寺の御経蔵があった所。渋紙小路は盗賊が旅人を殺して路銀を奪いその死骸に渋紙をかけて逃げたという事件に由来する。その後、毎夜渋紙をたたむ音が聞こえたという。明治13年この外に百間堀端・大督寺前通り(明治4年鍛治町口通と改称)・大山街道口を合併して家中新町となる。この町名は現在も残っている。
鷹匠町
酒井氏が御家中町として町割。藩主の鷹狩りに使う鷹を飼育する御鷹部屋や、その訓練に当たる御鷹匠の屋敷があったことから名づけられた。又、字名の七ツ蔵脇小路は現在の鶴岡南高校の所に藩の年貢米を収納する米蔵が7棟あったのでこの名がつけられた。現在は若葉町に入る。
若葉町
ここには昔新形村と舞台村があったが、酒井忠勝の町割りで各々城外に移され、新たに御家中すなわち武家屋敷が割り当てられた。御小姓町は小姓衆町・北小路ともいい藩主の側近近く仕えた御小姓が住んでいた所と思われる。広小路は、忠勝が城が出来るまでの間仮住いした高畑御殿(今のNHKの所)に通ずる道路で、特に幅が広かった。明治13年の区画変更の時、これらを合併し若葉町と改名、現在は学校・住宅地となっている。
新屋敷町
酒井氏入国の際、家臣を住まわせるため、新しく武家屋敷として町割を行ったので新屋敷(表新屋敷・裏新屋敷)と呼ぶようになった。現在は若葉町に入る。
最上町
元和8年酒井忠勝転封のおり最上家改易で主人を失った浪人を足軽として抱え置いた町で、最上家にちなんで町名が生まれたといわれている。その後、寛文2年(1662)に更に町割が行われ、村山郡(元は最上ともいった)の左沢から移ってきた足軽を住まわせ、それで当時は左沢町ともいった。左沢は、酒井忠勝の弟の直次が拝領したが跡継ぎがなく領地没収となった所である。明治13年最上町(長最上町)と蓮乗寺前新地・般若寺裏・横山街道が合併して最上町となる。
高畑町
酒井氏が入国した頃に御家中と御給人(下級武士)の町として町割りされ、江戸時代は高畑(表高畑・裏高畑)と称した。この辺は城下でも高燥の地にあたるため洪水による浸水の心配が殆どなかった。高畑御殿(今のNHKの所)は、酒井氏入国当初の仮御殿で、幕末には若くして亡くなった若殿酒井忠恕の未亡人瑛昌院の御殿が置かれた。字名の新山東小路は竜覚寺境内の新山権現に由来する。矢場小路は足軽達が弓や鉄砲の稽古をする矢場があったところである。明治13年にこれらと最上町横町が合併して高畑町となった。
泉町
江戸時代には、代官町・元長泉寺前・新山下と呼ばれていた。元長泉寺前は長泉寺のあったところで、延宝3年(1675)最上町(現在の錦町)に移され、その跡は正徳3年(1713)に町奉行所となった。近年まで馬市場であった所である。代官町は現在の荘内病院の前の通りで、その昔(最上氏時代か)代官の屋敷があったものか。新山下は新山権現(竜覚寺境内)の下に当たるのでこの名がついた。田圃になっていて新山たんぼと呼ばれていた。赤川の旧流路なので土地が低く洪水に悩まされていた。また、内川公園の辺りには弘法大師ゆかりの泉が湧いていたので、明治13年の区画変更の際、これらを合併し泉町と命名した。この町名は現在も残っている。
高町
酒井氏時代の御給人町。地勢からみて小高くなっているので高町と呼んだものと推測される。
日和町
江戸時代は般若寺前、及び六軒小路と呼んでいたが、明治13年これを合併し日和町と命名した。六軒小路は、下山王社(日枝神社)の交差点から北へ向かう道路沿いで、ここに六軒の御家中屋敷があったことから名付けられた。駅ができて道幅が広げられた。
宝町
酒井氏時代には御持筒町と呼んで藩の御持筒組(鉄砲組)の人たちが住んでいた。大内蔵小路は下山王社の神主・富樫大内蔵の屋敷があったことから名付けられた。その後明治13年の区画変更により御持筒町・大内蔵小路・中道・桝形(狐町)等を合併し新しく宝町と命名された。この町名は、現在も残っている。
与力町
酒井氏が入国した頃、家老の配下の与力が多く住んでいたことから名付けられた。又、長山小路は最上氏の旧臣で酒井忠勝に仕えた長山氏の屋敷があった所、薬湯小路は薬湯を業とする風呂屋(料亭)があった所。明治13年これらと荒町裏町・新与力町が合併して与力町となった。
鳥居町
その昔、今の内川のあたりを赤川が乱流していた頃は一面の川原であった。大宝寺城(後の鶴ヶ岡城)主の武藤氏は羽黒山別当を兼ね、この辺りに羽黒山を遙拝するための「一の鳥居」が立っていたので鳥居川原と呼ばれるようになった。鳥居は今の常源寺のあたりにあったといわれているが天正15年(1587)の戦火で消失した。酒井氏入国後、御給人町となり、鳥居川原御徒町(明治9年鳥居川原緑町と改称)・鳥居川原川端通・鳥居川原矢場小路と称された。餌刺町は、藩主の鷹狩に使う鷹の餌となる小鳥を捕らえることを仕事とする餌刺が住んでいたのでこの名がついた。
栄町
明治13年に舟渡町・御中間町・五日町片町が合併して栄町となった。舟渡町は赤川の船渡しを業とする者が住んでいたので、この名がついた。御中間町は御給人の内「御中間」の人々が住んでいた所である。
八坂町
旧藩時代は御徒町・天王前といって御給人町であった。天王社(天王さま)が明治になって八坂神社と改称されたので町名も八坂町となった。この神社は、きうり祭りで名高い。
紙漉町
旧藩時代は御給人町 であった。町名の由来は、貧しい御給人が紙漉きを内職にしていたことに由来するのかもしれない。「かみすき町」とも呼ばれた。字名の根木橋は御給人町で、苗津川に架けられた橋の名に由来する。紙漉町新地は元文2年(1737)に作られた新しい町。明治13年に根木橋と紙漉町新地・紙漉町横町は紙漉町に編入された。
新士町
酒井氏の町割のとき御給人町として新たに作られた町で新シ町・御料理人町と称した。字としては小舞台・漆畑があり、漆畑は漆器や蝋燭の材料に使う漆栽培が盛んであったことからつけられたと推定される。明治13年これらを合併して新士町と命名された。
天神町
酒井氏入国当初に御給人屋敷として割り当てられた所で、菅原道真を祭る天満宮(天神さま)が鎮座するところから天神町と呼ばれた。明治13年天神町裏町を編入する。
二百人町
元和8年酒井忠勝が入国した時、信州松代から引き連れて来た200人の足軽を住まわせるだけの屋敷がなかったので、仮小屋を建て一時的に居住させたのでこの町名が生まれた。後に御家中町となった。明治13年二百人町中町を編入する。
十三軒町
酒井氏の入国当初に、若殿様(酒井忠当)の御家中十三軒の屋敷を町割したので、この名で呼ばれるようになった。
七軒町
酒井氏入国した頃、蓮台院境内の一部を召し上げて、そこに若殿様酒井忠当付の7軒の御家中屋敷を置いたところから七軒町と命名された。字名の南新屋敷という所は、幕末に江戸に居住していた御家中が引き上げてきた時、七軒町西南の畑地に屋敷割りして33軒の家を建てたことによる。なお、蓮台院の山門は七軒町通りにあった。文化4年(1807)4月8日この寺から出火し、折柄の東風にあおられ火勢烈しく西に焼け移り、僅か4時間で南町・一日市町・七日町・元曲師町・上肴町・鍛冶町・新町・家中新町の1,000軒を焼き尽くした。鶴岡はじまって以来の大火である。
吉住町
酒井氏時代は寺小路と呼ばれ、龍蔵寺・明伝寺・本住寺等が並ぶ寺町であったが、明治13年の区画変更で新地と合併して吉住町と命名された。
賀島町
古くは東島・西島と呼ばれていたが、明治13年に合併し、めでたい意味の「賀」をつけて賀島町と命名された。また鶴岡城下の南郊外一帯を島村といったが、これは、昔この辺を赤川が流れていたことによるものらしい。
元曲師町
酒井氏入国当初は曲物師(檜の薄板を曲げて細工する職人)が住んだ所であったが、寛文11年(1671)に放火により全焼した。城の近くに燃えやすい檜板を扱う職人がいるのはよくないということで、曲物師達は檜物町(今の三光町)に移住させられ、その跡は武家屋敷として割り当てられた。町名も元(昔)曲師が住んでいたことによる。明治13年内川端を編入する。
幸町
酒井氏による町割の際、四ツ興屋には御給人屋敷が割り当てられ、その東は大工町といって藩の御用大工が居住させられた。明治13年四ツ興屋新地と合併し幸町と命名された。
大海町
江戸時代には、大山街道・八ツ興屋・金注連・下り町・大山街道片町(万年橋付近も含む)等に御給人屋敷が並んでいたが、明治13年区画変更でこれらを合併して大海町と命名された。町名の由来は大山海道の大と海の二字をとったものである。金注連は、金注連清水寺という寺があったことに由来する。
八日町
田川方面に通ずる街道筋にあって、酒井氏入国の際、御給人(足軽)町として町割された。東側には5軒の農家があり八日町村と称したが明治5年に八日町に編入された。明治22年の町村制施行により、従来の八日町・番田・柳田・日枝・島の各村を合併し稲生村と命名、各村はその大字となった。その後大正7年4月1日に鶴岡町に編入合併された。
番田
「ばんで」とも呼ばれた。田川街道の入り口に位置し、酒井氏が入国した時、御給人(足軽)の居住地として番田と裏番田が町割された。その外に農家もあり番田村と称した。古くは番手村とも書いた。新整町は幕末に庄内藩に預けられた新整組という浪士組を住まわせるために明治3年に町割りされたが、同9年に番田村に編入、消滅した。畑町は明治3年に宮野浦(現酒田市)で海岸防備の任に当たっていた藩士が戻ってきた時に町割りされたが、やがて消滅した。明治22年の町村制施行により番田村は稲生村の一部となり、さらに大正7年に鶴岡町に編入された。