地域の概要
朝日地域の歴史
越中山遺跡は庄内で最も古い「暮らしの跡」です。朝日地域内の越中山地内から旧石器が出土したことから、この地には今から約1万年以上前から人が住みついていたと考えられます。縄文時代のものとなると朝日地域内各地から土器や石器が出土。なかでも砂川地区の砂川A遺跡や中野新田地区の野新田遺跡からは住居址も発見されています。
戦国時代の争乱の中、庄内の領地は一時上杉氏が領することとなります。しかし慶長3年(1598年)、所領を越後から会津に移封された結果、飛び地となってしまった庄内地方へ向かうには必ず他国の領地を通らなければならなくなりました。そこで上杉氏家臣で米沢城主であった直江兼続は、置賜と庄内を直接結ぶ朝日軍道を開削。そのルートは現在の長井市から朝日連峰を縦走して朝日地域の鱒渕地区に至るものでした。またこれに伴い、朝日地域内には多くの城や砦が築かれ、現在も19ヶ所の城館跡が残っています。
間もなく慶長5年(1600年)、庄内地方は関ヶ原の戦いで東軍に組した最上義光の支配下に置かれます。しかし、義光の死後内紛が起こり、元和8年(1622年)最上家は改易され、信州松代から酒井忠勝が庄内藩主として鶴岡に入り、以来250年に渡ってその支配下に置かれました。
明治維新の後、明治4年の廃藩置県により朝日地域は大泉県に属し酒田県となった後、明治8年に鶴岡県に改められ、また翌年、鶴岡・山形・置賜の三県が合併して山形県となります。そして明治22年の町村制実施により、大泉村(大鳥・荒沢・上田沢・倉沢・下田沢・松沢の六ヶ村が合併)、本郷村(大針・砂川・行沢・本郷・上名川・下名川・熊出の七ヶ村が合併)、東村(田麦俣・大網・越中山・中野新田・東岩本の五ヶ村が合併)の三村が誕生しました。
太平洋戦争を経て、昭和29年8月1日、前年施行の町村合併促進法により大泉村・本郷村・東村の協議が成立し、朝日村が誕生しました。新村名は、朝日連峰のふもとであること、村民にとって生命ともいうべき大鳥川・梵字川がいずれも朝日連峰に発していること、「朝日」は昇天の勢いを表し、発展を象徴するとともに、明るい希望を表していること、また、簡易で読み誤ることがないことなどから定められました。この名称は、平成17年の鶴岡市合併後も朝日地域として残ることとなります。