獅子踊り・神楽
更新日:2024年8月21日
藤島地域は、獅子郷といわれるほど獅子踊りが多く保存・伝承されている。大谷・添川・東堀越・八色木・豊栄・渡前などがあり、どの集落も起源は判然としないが、ずいぶん古くからのもので、唐が西洋から学び、更に我が国が唐に習ったものといわれ、悪魔退治のために舞ってきたものである。
獅子は、一人立ちのもので、中獅子(なかじし)、旗獅子(はたじし)、白鷺(しらさぎ)、牡獅子(おじし)、牝獅子(めじし)の5頭からなり、中獅子が中心となって演じられる。頭の前部の飾りは獅子によって異なっている。頭から幕を下げ、腹の前に太鼓をつけ、肩張りのわっかをつける。獅子のほか女装の簓(ささら)、太刀遣い、棒遣い、唄い役など総勢30人ほどになる。唄に合わせ、太鼓を打ち鳴らしながら、飛び跳ねるように舞うのである。
曲目は、ところによって違いはあるが、大踊り、橋掛り、幕掛り、女獅子狂い、弓踊り、投草などである。適宜組み合わせるわけである。盆中心の祭りに踊ることが多く、精入れの後、神社でまず踊り、ついで氏子の家々を求めに応じて廻る。
この種の踊りには、大きく分けると二つの要素からなっている。その一つは、獅子が神の使命あるいは、神そのものとなって現れ、村や家々の幸せを祝福する形を示す。
その二は、もともと獅子は、人間に禍をもたらすもの、ないしは田畑を荒らすものであった。獅子はまず、そのような形で現れる。しかし、このような獅子は、反面悪霊を鎮める威力もあるものと、昔の人は信じていた。獅子は、神として祀ってくれるならば、心を改めて禍なす悪霊などの鎮め役となり、人々に幸福をもたらし、農耕の守り神となることを誓うのである。いったん圧伏(あっぷく)された獅子が、神として新たな生命力をもって生まれ変わるときに、簓すりが出てくる。そして、獅子は喜びの乱舞をする。圧伏は、太刀遣いや棒遣いが役目である。そのほか特徴として、女獅子隠しと言って二頭の牡獅子が女獅子を争う所作を演ずる。獅子が恋愛の極致的描写をする等がある。これは、生産の原始的祈りであろう。また、踊りそのものは中世以降発達した念仏踊りの系統を引いているといわれている。
保存会一覧
- 大谷獅子舞保存会
- 両所神社御獅子舞保存会
- 両所神社三役保存会
- 東堀越獅子踊保存会
- 八色木獅子踊保存会
- 豊栄獅子踊保存会
- 渡前獅子踊保存会
- 古郡神楽保存会
- 六所神社獅子頭庭舞保存会
- 長沼八幡神社神楽保存会
小学校での取り組み
大谷獅子舞
- 伝承地
鶴岡市大川渡・谷地興屋
- 上演の時期
機会 大地神社祭礼
日時 8月15日
場所 大地神社
- 保存会
名称 大谷獅子舞保存会
場所 鶴岡市大川渡
- 由来等
大川渡は、1,200 年前の和銅年間、谷地興屋は 400年前の永正年間開村で、その誕生時期は異なるものの、すぐ隣の集落だったことから仲睦まじく共有し歩んできました。獅子御頭は、大正4年まで大川渡、白山神社に保存してありましたが、その年火災にあって現在の大地神社に保存されました。
大谷獅子舞は、鹿踊りの一つで、鹿と人との心のふれあいから生まれた民俗芸能であり、人々の心からなる共同を示しており、共同で悪魔や悪霊、外からの敵を防いだことを表す勇壮な獅子踊りとして受け継がれてきました。年月の流れとともに五穀豊穰を願い、悪虫、悪病を払い両集落の幸せを願う踊りとして保存されております。踊りの起源は、白山神社の火災のために記録等が失われ、いつ頃から伝わったかは不明である。大地神社の一番古い記録によれば文化2年(1805)に奉納しているので、それ以前からあったものと推定されます。毎年奉納するものでもなく、若者の強烈なる意思と結束がなければ長老から許可がおりません。それは、一度獅子頭が出されると絶対途中で止めるとか、失敗は許されない、きついご法度があるからです。師匠の指導のもと2ケ月余りの厳しい練習を行い、8月7日大地神社で古式ゆかしい獅子頭に精入れの式を行い8月15日の例祭奉納を中心に3日間村から村へと五穀豊穰を祈りながら踊り続けます。
両所神社御獅子舞 昭和47年市指定無形民俗文化財
- 伝承地 鶴岡市添川
- 上演の時期
機会 両所神社祭礼
日時 8月18日
場所 両所神社境内
行事次第 頭屋から行列を作って両所神社に行く
- 保存会
名称 両所神社御獅子舞保存会
場所 鶴岡市添川
- 由来等
古来よりしばしば大火の災禍にあって古い記録は全く焼失しており、御獅子舞の由来についても文献によることができないが、口碑(こうひ)によれば大凡次のようなことがある。
当産土両所神社は、往古添川の集落下に鎮座せられていたが、天和元年、現在地両所山に奉遷。貞享3年地域民あげてこの遷宮の大祭典を執行。古くから伝承しきった両所宮御獅子舞を氏子の壮者等競って奉納。盛大に奉仕せられしものの如くであり、当社旧例祭日陰暦8月朔日、陽暦9月8日(後9月1日に改む)、現在8月18日の御例祭には、毎年欠かすことなく氏子青年あげて伝習奉納、今日に至っているが、伝承の起因については、不明である。
両所神社の創建は、約700年前、鎌倉の執権最明寺時頼その武将梅津中将を当国の探題として遣わされ、かつ、羽黒山の長吏職を兼ねて添川に居城(一名上旬館ともいう。)城内鎮護の神として大物忌大神月山大神の二柱を勧請合して両所神社としてそう敬せられたという。その後天正年間の兵乱に梅津家居城を去るとともに当社の神事も永く中絶せられたが、寛永5年戊辰12月17日社殿を再建して当地域の産土神として仰ぎ、その後天和元年御遷宮のこと等もあって明治9年3月2日郷社に列せられ、昭和5年氏子そう敬者の寄進によって社殿の大増改築をなし現在に至っている。
両所神社三役
奴振り
- 伝承地 鶴岡市添川
- 上演の時期
機会 両所神社祭礼
日時 8月18日
場所 両所神社境内
- 保存会
名称 両所神社三役保存会
場所 鶴岡市添川
- 由来等
三役とは奴のことで、江戸時代の武家の奴僕(どぼく)、溌びん、鎌髭の姿で主人(殿様)の槍、長柄、挾箱を持って大名行列のと供先を勤めたと言われている。庄内地方の奴振りの由来は、現在の鶴岡公園の旧城跡地に明治10年に新たにご神殿を造営されたのを記念に、酒井公奉納の衣装や道具によって始められたと言われている。両所神社の奴振りは、その創立記録によれば、大正13年荘内神社例大祭行列の奴振りの振付をやっていた渡部力治師匠の教えを受けた、鈴木玄作(現在の鈴木勝右衛門)を組頭として数名が荘内神社の例大祭に雇手伝いとして参加しました。それ以後両所神社の例大祭に、地域の発展と氏子民の安全を祈願して奉納されたのが最初と言われている。終戦後一時中断された時期もありましたが、昭和23年に上林安大朗組頭を先頭に復活しましたが、袢纏(はんてん)や槍の補充に苦労した。その後、いろいろ困難もありましたが、昭和55年8月15日、両所神社々殿造営50周年記念行事として集落の中に御神輿の渡行の折、奴振りの初穂料を基金とし、なお、氏子から篤志寄付金、集落会計、神社会計より助成を受けて現在の衣装が整備されました。昭和55年9月に三役の保存会設立の要望があり、翌年1月より7月まで数回の発起人会を開いて同年8月に三役保存会々則を制定し、現在に至っています。
東堀越獅子踊り
- 伝承地 鶴岡市東堀越
- 上演の時期
機会 新山神社祭礼
日時 8月18日
場所 新山神社境内
- 保存会
名称 東堀越獅子踊保存会
場所 鶴岡市東堀越
- 由来等
獅子大神の起源は、新山大権創立、源頼朝公の家臣下野国の住人安達藤九郎盛長、手向の黄金堂建立のおり、同じ年に建立して実に驚くべき黄金堂以上の建造物であると伝えられている。その遷宮式を建久5年甲寅年7月18日執行。新山大権現は天地開闢の時にあたり、大神に坐々ければこれにおいて獅子踊、行事はその昔より伝わっておるとのこと。盛長遷宮式執行するにも人々の諸災悪病退散、五穀の悪虫退散ため、舞子5人、太刀使い1人、棒使い2人、槍持2人、簓摺り2人、歌人7人、第2舞子5人、第3舞子5人、計29人の大団獅子舞を添えて大遷宮式執行せんという。これを信仰して霊験を被りおる人々は、毎年の獅子舞を悪魔払いと名付けてこころ踊らせて舞を待っているのであります。
今もって当神社例祭、新暦8月18日なるも7月初旬より毎年この獅子大神を中心に練習し、毎晩獅子大神の社地、押すな押すなの見物人、怪我のないのは神救いであると。8月13日幕付の日まで毎晩の大練習。8月18日は修験職以下関係者獅子舞大団体の行列を造り修験職家(社家)より参進。獅子大神を巡ること3度、それより獅子頭を神前に飾り厳かに祭典を奉仕し、祭典終了後、獅子大神前にて第2、第3の舞子次からつぎへと神前にて一夜獅子踊りで夜を明かす。翌19日は、氏子の戸々において悪魔を払い、産土大神の恵み福をうける。8月20日獅子の御神霊還し、新山権現の古よりの祭、獅子行事終了として現在に伝えられる。
八色木獅子踊り
- 伝承地 鶴岡市八色木
- 上演の時期
機会 皇太神社・薬師神社祭礼
日時 8月17日
場所 皇太神社・八色木薬師堂境内
行事次第 頭屋から行列を作って神社に行く
皇太神社、八色木薬師堂で舞う。
特別依頼を受けた家の門口で舞う
- 保存会
名称 八色木獅子踊保存会
場所 鶴岡市八色木
- 由来等
起源については、判然としないが、今、残っている記録によれば、明治4年に初めて踊ったことになっているから、それ以前に始められたものと思われる。八色木の獅子は、他の獅子郷のものとは子弟関係がなく、全く独創されたものと伝えられている。その創始者は、唄が海藤四郎右衛門とされ、その唄に振付したのが斎藤仁助とされている。この二氏が幾星霜かをこの創作に没頭し、今日の八色木獅子たらしめたことを思うとき、感無量である。なお、過去の奉納をみると明治4年、明治24年、明治43年、大正8年、昭和28年に踊っている。
豊栄獅子踊り ※活動休止中
- 伝承地 鶴岡市豊栄
- 上演の時期
機会 皇太神社・諏訪神社祭礼
日時 8月16日
場所 皇太神社・諏訪神社境内
- 保存会
名称 豊栄獅子踊保存会
場所 鶴岡市豊栄
- 由来等
藤島の無音(よばらず)獅子と余目の家根合獅子と兄弟獅子で養子か年雇の者が、当地に伝来したものと考察され、15カ年毎に踊ったという古老の語りがある。諏訪神社に掲額された獅子踊行列の絵図は、明治36年7月のもので、15年遡れば明治20年にも踊ったことになる。なお、15年遡れば明治5年となり、その年の7月、成田三吉の唄の本が発見されたことから、それ以前のものと推測される。また、明治43年に踊ったという写真があるが、その年は悪病が流行して住民の悩みを払うため、周期を待たずに踊ったもの伝えられている。若者達の組織で取締りが行なわれ、その後、赤心会を構成、会長が取締りを行ない大正8年8月奉納。昭和12年、昭和27年に奉納。昭和44年獅子踊保存会が結成され部落長が保存会長となる。
渡前獅子踊り
- 伝承地 鶴岡市渡前
- 上演の時期
機会 五所神社祭礼
日時 8月15日
場所 五所神社境内
- 保存会
名称 渡前獅子踊保存会
場所 鶴岡市渡前
- 由来等
獅子踊りの起源は、遠く室町時代に遡る。当時上流階級であった公卿たちの間に能が発達し、時を同じくして舞楽と田楽が流行した。獅子踊りは、その中の舞楽から派生したものと言われている。記録は乏しいが、文政10年(1827)、天保10年(1839)とその後14年間経た嘉永6年(1835)、更に10年後の文久3年(1863)などに、盛大に獅子踊りを行なった記録が「獅子踊諸雑用控帳」として残されている。
渡前の獅子踊りは、無表情で複雑な美しさはないが、これを冠る踊り手の上手さによって、さながら生きたもののようにその表情を変える。太鼓を叩きながら獅子頭を激しく振り立てて足を強く踏んで踊る様は、誠に勇壮極まりない。この足踏みは悪魔払いの反ばいであるという。踊りには、「大踊り」「橋掛り」「幕掛り」「女獅子掛り」の四つからなり、素人眼には単調な繰り返しのようにも見えるが、踊り毎にそれぞれ力の入れどころがあり、一種類の踊りをすますにも一時間余りを要するのである。
「獅子頭は宝徳からきた。」という伝説があり、その証拠に近郷を廻るとき最初に行くのが宝徳と定められている。
一方、須走から伝習したとも言われている。須走には文政3年の書類が残され、獅子唄も共通していることから、こちらの説が有力ともとれる。
古郡神楽 (太神楽 ) <昭和49年 市指定無形民俗文化財>
- 伝承地 鶴岡市古郡
- 上演の時期
機会 池神社祭礼
日時 8月15日
場所 池神社境内
- 保存会
名称 古郡神楽保存会
場所 鶴岡市古郡
- 行事次第及び演目
獅子舞(ごぎょうの舞、いさめばの舞、まわれば舞、おいけの舞、くり獅子舞、しまいの舞)、剣の舞、くりもの、たてもの、傘まわし、皿まわし、卵まわし、鳥刺舞、太輔才蔵(たゆうさいぞう)
- 由来等
由来の詳細は不明であるが、いろいろな点からみて三百数十年の歴史をもつものと思われる。言い伝えによれば、藤島郷一帯は、水利の便が悪く毎年のように干害に悩まされ、農民の生活は苦しい限りであった。最上義光の臣、新関因幡守は何とかしてこの悲惨な境地から農民を助けようと決意し、この地方の地形をつぶさに調査し、現在の因幡堰開鑿の大工事を施工、池神社に21日間おこもりをして事業の完成を祈願したと言われている。それから幾多の苦難を乗り越え、ついに今日の美田をみるに至ったのである。堰が完成した際、神前に神楽を奉納し神のご加護に深く感謝の意を表したと言われている。古郡神楽は、決して一朝一夕にしてなったものでなく、初め獅子舞が行なわれ、ついで「剣の舞」それから「曲芸的なさまざまの曲目」が加わり現在のようなバラエティに富んだものに成長したものと考察される。
六所神社神楽
- 伝承地 鶴岡市上藤島
- 上演の時期
機会 六所神社祭礼
日時 4月19日
場所 六所神社境内
- 保存会
名称 六所神社獅子頭庭舞保存会
場所 鶴岡市上藤島
- 行事次第及び演目
獅子舞
- 由来等
藤島城と平形館に近く上藤島に鎮座の六所神社は、古来、見満山満願寺六所権現と称えられてきた名社であるが、藤島城主、その他古来より崇敬のあった大社で神宝古記等多かったが、幾度か藤島城を中心とする戦乱、火災に遭遇し、その多くは欠逸してしまった。
記録文書により、主として獅子頭庭舞神事について述べると、建武中興時代の初期、平形館主九鬼長門守が獅子頭を直作して奉納された御頭様という獅子頭がある。他に御隠居様という古い獅子頭がある。いつの時代のものであるかは不明であるが、相当古いものである。
獅子頭の神事の起源は、不詳であるが慶長6年最上義光の将新関因幡守久正が藤島城主に任ぜられ、鶴岡城代を兼ねられたその頃、獅子頭庭舞神事のため、登城したのがその因縁で、以来引続き旧中川郷71個村に渉り、恒例の神事として廻村、庭舞として各村中、各戸の家内安全等の祈祷を行なってきたが、鎮火の御神徳を蒙り殊に火災に際しては、古来幾多の御神徳を顕し氏子の崇敬は篤かった。
長沼八幡神社神楽
- 伝承地 鶴岡市長沼
- 上演の時期
機会 八幡神社・春の例大祭
八幡神社・夏の例大祭
日時 4月29日、8月15日・16日
場所 八幡神社境内
- 保存会
名称 長沼八幡神社神楽保存会
場所 鶴岡市長沼
- 行事次第及び演目
- 由来等
古い記録もなく、由来についても文献によることが出来ないが、口碑によれば宝暦四年に余目の茗荷瀬(みょうがせ)町内会から伝わってきたとされている。
獅子頭作者大沼幸七氏、大沼多七氏より奉納。明治20年に富樫治左ヱ門より米一斗分の重さの獅子頭が寄贈された。
当初は、地主農家へ奉公に出ていた人達の娯楽の一つとして、獅子舞・女舞・神楽舞・笛・太鼓などが受け継がれていたようである。年と共に諸災害、悪虫・悪病を払い、五穀豊穣、家内安全、商売繁盛などを願い、8月14日神殿において厳かに精入れが行われるようになった。昭和40年頃までは、三川町の土口まで行き、8月17日までの4日間も舞いが行われていた。
これまでは長沼地区旧3区の住民(現在の宮東、下通)により伝えられてきたが、時代と共に後継者が少なくなり、一時期は笛と女舞が途絶え、2日間に縮小されて現在に至っている。
昭和53年の開発350年祭に氏子の協力を得て獅子頭が新調された(現在3頭)。若い後継者が入り、笛と女舞も復活し、にぎやかに祭典に花を添えている。
十数年前に保存振興会が発足。氏子よりいただいた会費を後継者育成資金として活用し、全町内会から後継者を育てて後世に伝えるため活動している。
小学校での取り組み
東栄小学校の獅子踊り
「東栄小学校の獅子踊りは、僕たち一人ひとりが、今生き生きとたくましく生きていることの喜びを表現し、その生きている喜びは、家族や地域の人々、自分たちのまわりの人々のお陰であることに感謝し、そして、家族・地域・踊りを見てくれる人々の、これからの健康と幸せを祈って踊るものです。また、地域に伝わる獅子踊りを誇りとし、これからも長く伝承していきたいと思っています。」
「1998年新港ミュニティ児童芸術節」に参加
台湾で、平成10年6月27日(土曜)から7月3日(金曜)にかけ開催された「1998年新港ミュニティ児童芸術節」に、日本の児童芸術団体の代表として東栄小学校の6年生30名が参加し、自慢の獅子踊りを披露しました。
この祭典に参加したのは東栄小のほかカナダ、クロアチアなど7か国の子供たち。ともに歓迎式典や街頭パレードに参加し、交流を深めました。
添川・東堀越の獅子踊り合わせて約30分のプログラムを、3日間で計5回披露。激しいリズムと勇壮な踊りに、集まった観客から大きな拍手が送られていました。
学校教育でのねらい
- わが国は、戦後の目覚ましい経済・産業の発展によって、必要なものは何でも手に入る物質的に豊かな社会になった。その反面 、いま、心の貧困さが、大きな社会問題になっている。青少年においても、思いやり、忍耐、連帯性等の欠如から、非社会的、反社会的問題が多発している。このような状況にあって、21世紀に生きる子供たちに、今一番に大切なものは、心の教育であろう。 毎日接する子どもの姿をみると、相手を思いやり、命あるものを大切にし、目に見えないものに対する敬虔な心、畏敬の念といったものが不足しているように思われる。
- 地域には、長い時代に培われたすばらしい歴史、文化、風土がある。それらを教材化し、ふるさとのよさを学ばせ、ふるさとを愛し、ふるさとを誇れる子どもに育てる。
- 獅子踊りを舞うことで、今、自分が生きていることの幸せと喜びを表現する。
- 特定の神仏を信仰するのではないが、自分たちの、そして、地域の人たちの幸せを祈って舞う。
- 各地域に伝わる獅子舞を、自分たちも受け継いでいくのだという意識を培う。
経過
- 平成4年 地域、学校に子供獅子舞の機運高まる。11月より練習を取り入れる。
- 平成5年 正式に学校教育に位置づける。獅子踊り振興協会発足。
- 平成6年 獅子頭整備。添川、東堀越の舞を取り入れる。
渡前小学校の子ども獅子踊り
渡前地区に今から約170年前から伝わる「獅子踊り」。村の五穀豊穣と安泰を願って、これまで約10年ごとに地域の五所神社に奉納されてきた。平成9年夏、その獅子踊りが7年ぶりに上演された。地域の勇壮な獅子踊りを子ども達にも伝えていきたいという教師・地域の方々の願いと、初めて目にした子ども達からの「ぼくたちも踊ってみたい!」という思いが一つになり「渡前子ども獅子踊り」が渡前小学校に誕生した。
「獅子踊り」との出会い -教師の願い-
「獅子の郷、渡前」。私が毎日通勤する道路沿いにこんな看板が立っている。藤島地域は各地区に今なお獅子踊りが残る「獅子の郷」である。他の地区に伝わる獅子踊りは目にしたことがあるが、渡前地区の獅子踊りは見たことがない。「渡前の獅子踊りってどんな踊りなんだろう…」毎日その看板を眺めながらそんなことを思っていた。
平成9年8月、渡前の獅子踊りが7年ぶりに復活。村祭りをはじめ、仙台に招かれて公演するという機会があった。私の学級に獅子踊りに初めて携わり、太刀使いとして踊った子どもが一人いる。夜遅くまで練習しているその様子を神社に見に行って驚いた。腰を低くし太鼓を打ちながら、力強く踊る姿が実に勇壮であった。月明かりに照らされて神秘的な感じすらした獅子踊り。初めて目にして強く心を打たれた。
地域に残る素晴らしい宝を子ども達にも見せたい!伝えたい!と思い、早速ビデオを借りて教室で見せたところ、子ども達から歓声が上がった。「すごい!渡前の獅子踊り、初めて見たよ!ぼく達も踊ってみよう!」そんな声が子ども達から出てきて、学習発表会で3年生みんなで挑戦することになった。社会科の地域学習を柱に、他教科との関連を図りながら総合的に取り組んだ。
子ども達は日々地域の中にありながら、地域の良さや、地域に残る文化の存在に気付いていないことが多い。「渡前の地域に生きる子ども達に、渡前のことをもっと知ってもらいたい」そんな願いがある。地域の獅子踊りに体験を通して触れ、昔から守り継いできた人々の願いに触れることは、自分のふるさとの良さ・尊さに触れることであり、自分のふるさとを大切にしていこうとする気持ちや態度の育成につながるものと考える。また、地域の多くの方々と関わり合う価値ある交流活動は、子ども達にとって地域に生きる一人としての自覚につながるものと思われる。
渡前地区にしかない素晴らしい伝統文化が、自分たちの財産として、ふるさとの誇りとして、いつまでも子ども達の心の中に残っていくものになればと思う。新しくスタートする「渡前子ども獅子踊り」が成功しますように…。
学校教育でのねらい
- 地域に昔から受け継がれてきた伝統文化を学び、体験的に踊ることで「獅子の里・渡前」に育つ子どもとして、地域の良さに気付き、地域を愛する心、地域を誇れる心を育てることができる。
- 獅子踊りに込められた願い、受け継いできた人々の思いや願い、歴史的背景を知ることで、今の時代を生きる幸せに感謝し、地域のさらなる幸福を願って踊ることができる。
- 獅子踊りを通して、価値ある交流活動(関わり合い)ができる。
経過
- 平成9年11月、本校第3学年の児童25名が、学習発表会で「子ども獅子踊り」を披露。
- 平成10年3月、地域の獅子踊り保存会の方々と話し合い、毎年3年生が地域学習として獅子踊りを学び表現していくこととした。
お問合わせ
メールでの回答が必要な場合は、住所・氏名・電話番号を明記してください。
鶴岡市役所 藤島庁舎 総務企画課
〒999-7696 山形県鶴岡市藤島字笹花25番地
電話:0235-64-5814
FAX:0235-64-4280